かすかな頭痛と嘔吐。
右手の人差し指に残る違和感。
それらを後悔と呼んだところで、失ったものは余りにも大きすぎた。



薄暗いアパートの一室に、太った男が入ってくる。
午後3時。
部屋の隅に無造作に積まれた、空の段ボール。
ベランダ越に容赦なく照り付ける陽光に、軽く目をしかめる男。
急いでエアコンのスイッチを入れる。
暑い。

逆光に黒く沈むカメラ。
辛うじて「F」の文字が見える。
男はおもむろにカメラを手にし、SDカードを取り出した。
日焼けした太い腕。
カードをパソコンに接続し、マウスを動かす。
武骨な中指、そして人差し指が、滑らかにマウスの上で踊る。
「カチ、カチ」

訪れる沈黙。
猛暑には似つかわしくない、静寂が支配する部屋。
壁時計が秒を刻む。
「カチ、カチ、カチ」

男が静かにうなずく。
「よし。」




_DSF0370
【日本平】 FUJIFILM X-H1 / XF 80mm F2.8 R LM OIS WR Macro + XF1.4X TC WR / F7.1 AE(-1.0) / ISO200 / JPEG(CLASSIC CHROME)




遡ること数日。
カメラメーカーF社の顧客サービス部は、安堵の空気に満ちていた。

「やれやれ、やっとバージョンアップ公開にこぎ着けたか。」
「これでお客様のクレームも減るでしょう。一安心ですね。」
「安心と言うが、そもそも我が社は何故、こうも不具合が多いのだろうか。」
「他社も似たり寄ったりですけどね。」
「我が社もしかり、O社もしかり、どうも後発組は、電気回路や筐体設計が弱い気がしますね。」
「いずれにしろ、不具合を抱えていることを知りながら発売するなんて、クレームの最前線に立たされている我々のことを、少しは考えてほしいものだ。」
「同感です。」
「細かな機能追加がイメージアップに繋がればよいのだが、こう出るカメラ出るカメラが高機能だと、原点回帰と言うか、基本機能に重きを置くお客様が増えてきているのは、やはり自然の流れだろう。」
「カメラとしての背骨の太さが求められている、と言うことでしょうか。」
「そうだな。基本機能の確かさを最優先し、少なくとも不具合は無いと自信を持ってから、商品は発売すべきだろう。」
「スケジュール通りに発売することが優先される今の風潮、ですか。」
「どうにかしないといけませんね。」




再び、アパートの一室。

男は、フォーマットしたSDカードに、ダウンロードしたバージョンアップデータをコピーした。
引き続きSDカードのドライブを右クリックし、ポップアップメニューの「取り出し」をクリックしようとしたその時、得も言われぬ違和感が、男を襲った。

メニューに「取り出し」が・・・ない?
どういうことだ、これは。

ドライブ名は「F●●●f●●● X」。
うむ、間違いなくSDカードのドライブ名だ。

ん?X?・・・
X-H1ではなく、ただのX?
ま、まさかこのドライブは・・・

!!
!!!

声にならない慟哭。
跳ねあがる血圧。
背中をじっとりと伝う汗は、暑さのためか、それともアドレナリンのせいか。


や、やっちまった。
フォーマットしたのはSDカードではなく、USB接続していたSSDドライブ。
X-H1を購入以来、撮った全ての写真が入っていた。
バックアップは・・・無い。
右手の人差し指が、男の歴史の数パーセントを消し去った、その瞬間であった。




ようやくエアコンが効き始めた。
気だるい冷たさが、男の身体をどんよりと包む。
背中を伝う汗も引き、残るは空虚の海に浮かぶ自責と言う名の舟、か。

よろよろと立ち上がった男は、蚊の泣く声でつぶやく。
もう、写真、やめよう・・・

・・・涼しくなるまで。